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   3


「……冷房、いれてる?」
 リヴィングに入ってすぐ汗に濡れたシャツを脱ぎ出しながら、水江はふと呟くように尋ねた。
 ちょうどよく涼しい空気が、すっと身体の表面の汗を消す。水江の脱いだシャツや部活に使ったシャツなどを受け取って、質問の相手は落ち着いた声でええと答えた。
「あなたが帰ってくる十分前からですよ、丁度涼しくなった頃でしょう?」
 すぐに用意されていたタオルとシアの腕で柔らかく肩を包まれて、水江は少し複雑に顔をしかめる。
 優しく触れた腕をすぐに離しキッチンに向かうシアの背中を、水江は目で追った。
「……あのね、昼はいれてないの?」
「そうですね、いれてません」
「いれてもいいんだけど」
「いえ、どうせ昼は書庫にいるだけですし、書庫は涼しく保たれてますから」
 リヴィングに戻ってきたシアはあっさりとそう答えて、冷えた麦茶を注いだコップを差し出す。ソファに身を沈めながらそれを受け取って、水江はあきれた。……そういえば彼は外にいても涼しい顔で殆ど汗をかいていなかった気がする。
「暑くないわけ?」
「そうですね、別に」
「……変だよ、それってかなり」
 言いながら、水江は自分の言い様に顔をしかめた。
(変?)
 それは自分の方だ。
「……シア」
 水江はなんとなく唇を麦茶で湿らせる。
「なんですか」
「……腹へったな」
「そうですね、そろそろ夕食をつくり始めますか」
 穏やかな口調で返して、シアはすぐ傍らの水江を限りなく優しいその眼差しで見下ろす。その瞳に見つめられているのがどこかいたたまれないようで、水江は少しだけ頬を赤く染めて視線を逸らした。
「なんだよ」
 水江のぶっきらぼうな声にもシアの穏やかさは変わらない。
「そのままじゃ風邪を引きますよ、なにか」
「……別に、平気」
「駄目ですよ。ほら、震えてるます」
 そう言ってのばされた腕を水江は無言で受け入れた。触れるか触れないかの柔らかい抱擁は仄かに暖かく、無意識のうちに唇から吐息が洩れる。
「……疲れてるんですか?」
「ん……別に、そんなんじゃないよ」
「お風呂に入って汗を流して、ゆっくり身体を休めた方がいいですよ。気づかないうちに疲れをため込むときもありますから」
「…………」
「お風呂に入っている間に夕ご飯を作ってしまいますから」
 優しくそう言ってシアの見せるもう見慣れたはずのどこか憂愁の漂うような静かな微笑みはひどく気持ちを落ち着かせる。水江は小さく短く尋ねた。
「今日、何?」
「水江さん、昨日辛いものが食べたいとおっしゃってたでしょう? だから」
「カレー? ……じゃないか。匂いしないし」
 にっこりとシアは笑む。
「良い豆板醤が手に入ったので、麻婆豆腐にしようと思ったのですが」
「いいね、おいしそう」
 本心からそう答えながら、だが心の中で水江は首を傾げている。ほのぼのとして、まるで家族か夫婦のような会話だ。
 あっという間にいつまにか、どうしてこんなにも馴れてしまったのか……不思議だった。
 シアの笑みは柔和で落ち着いていて、気後れを感じさせない。真也や郁でさえ感じる違和感や息苦しさをたとえ一日中一緒にいても感じないでいられる。
 忘れさせてくれるのだ、自分が異端であるということを。
(なんでだろ……)
 シアはそっと水江の身体を解放して、その肩のタオルを掛け直す。自分は彼に尽くされるまま何もせずにそうして楽に生きている。……甘やかされているのかもしれない、水江は思った。
 そのまますぐにお風呂の準備にバスルームへ向かうシアの背中をぼんやりと眺める。白いサマーセーターに包まれた男のわりには薄い背中。
「…………」
 ふと水江はそこになにかが見えたような気がして、目を瞬かせた。



 キッチンにたつ背中は甲斐甲斐しく働いていた。広いリヴィングのすぐ隣にダイニングキッチンが繋がっていて、リヴィングのソファに部活で疲れた身体を沈めた水江にもその背中はよく見える。
 白いサマーセーターの上にきちんと黒のエプロンを着て。
(……白色)
 リヴィングで雑誌を読むことなしに読みながら、水江はなんとなく何度も何度もその背中に目を送る。
 さっき不意に思いついたことがあった。余りにも唐突で、水江は思いついた自分自身戸惑っていた。
「……シア」
「なんですか」
 キッチンで振り向かずにシアが答えた。水江は少しだけ言い淀んで、それから雑誌のページをめくる指を止める。どうしてそれを伝えようと思ったのか、水江は分からないまま口を開いた。
「なんか思い出したんだけど」
「はい、」
「……そういえば俺、シアに一番最初にあったとき、シアのことどこかで見たことがあるって思ったんだ」
「…………」
 シアは包丁を動かしながら水江の言葉を聞いている。シアの働く背中を見つめながら、水江は続けた。
「さっき、それが何なのか思い出した」
「…………」
「ちっちゃい頃に逢ったんだよね、よくは覚えてないんだけど」
 水江は少しだけ笑う。思い出したというのはおかしいのかもしれない、と水江は思った。本当はそのときの記憶などないに等しい。……殆どそのときのことは覚えてなんかいないけれど。
 逢ったのだ。
「──天使に」
 父にも祖父にも祖母にも妄想だと、幻想だと、夢だと言われたけれど、確かに自分は逢ったのだと水江は信じている。どこで逢ったのかも、逢ってどうしたのかも、何も覚えてはいないけど。
(覚えているのは、淡い水色の)
 綺麗な、瞳。
 シアの背中から視線を外して、水江はリヴィングの宙をぼんやりと眺めながら、その瞳を思い描く。
 どこか切なく胸を震わせるように繊細で溶けて消えてしまいそうに淡い、薄い水色をした透明な瞳──。
「似てるんだよね、あのとき見た天使の目とさ、シアの目。……それだけだけど」
「……私が、天使に似てると?」
「うん、綺麗だった」
 正直に水江はそう告げる。シアは綺麗だ、とそう言うことにあまり照れはなかった。
 水江の言葉にふとシアが手を止めて、くすりと小さな笑い声を洩らす。きょとんと水江は顔を上げた。
「なに、シア?」
「……綺麗なのは、水江さんの方ですよ」
「は? なに言ってるの?」
 ぎょっとして水江はそうシアを振り返る。シアは水江に背中を向けたまま、また手を動かし始めたようだった。……包丁のとんとんとんという、どこか懐かしいような音が鼓膜を震わせる。
「俺のどこが綺麗なの? それ、日本語、間違ってない?」
「まさか」
「じゃあなんでそういう変なこと言うわけ? 不思議だ」
 本気でそう水江が顔を歪めて唸ると、やはりシアはごく穏やかに、決して不愉快など感じさせない笑い声をあげるのだ。
「不思議ですか?」
「──あのね、これを不思議って言わずにどう言えっていうわけ? 謎とかミステリーとか? それともスペクタルロマン?」
 スペクタルロマン云々はシアには分からないだろうが、水江の意図は通じたはずだ。水江はリヴィングから見えるキッチンの後ろ姿を眺めやった。
 その白い綺麗な、後ろ姿を。
(……白い、美しい)
 ふと唐突に胸に湧いた焦燥に水江は目を見張る。……なんだろう、大切なことを忘れているようになにかが曖昧に急き立てる。不意に目の前のその果敢なく、遠い色が今にも飛んでいって消えてしまうような気がして、慌てて水江は口を開いた。
「シア?」
 シアは水江に呼びかけられて、そっと背中を振り返る。静かな動作だった。水江は不意にそのシアの存在の美しさに言葉を飲み込んでいる。
「……ミステリーでもなんでもないですよ、水江さん」
「…………」
「私にとって、水江さんは誰よりも綺麗な人ですから」
 恥ずかしげもなくそう断言して、シアはにっこりと水江に笑ってみせた。


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水沢圭子

Author:水沢圭子
目指せ小説書き。日々の生活に甘んじず頑張るために実験的にブログ小説を始めることにしたくせに、結局書けてません。とはいえ現在は投稿メインでがんばり中。

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