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   1 ハル



 どうして自分がここにいるのか、分からなかった。
 陽のあたらない、背の高いビルに挟まれたゴミだけの汚い小路に、僕は座り込んでいた。
 見上げれば狭い狭い青空が見えた。きれいだな、と思う。切ないくらいに澄み渡った空だと僕は思った。いつからか抱いていた胸の痛みに似ていた。
 ……遠い、空。手の届かない、その先。
 雑踏、ざわめき。
 どうしてこんなところにいるのだろう。まるきり時間と空間の軸が狂っていた。僕はビルの冷たい壁に背中をあてたまま、額に手を当てた。狭い露地からざわめきの方に目をやれば、大通りを行き交う沢山の足が見えた。沢山の人がいて、みんな僕には気付かずに足早に歩み去っていく。
 どうして、こんなところに。
 ゆっくりと髪をかきあげて、なぜかその瞬間に、僕は気が付いていた。不意に突然、けれど驚きはなく、戸惑いもなく、すんなりと。
 ああ、と嘆息を洩らす。狂っているのは、記憶だ。どこか曖昧な白色に埋め尽くされて、僕はそれが分からないのだった。
 ……僕は、誰?
 僕は、なに?
 名前や容姿や年令や性別やそんな自分の根本的なことさえ僕は覚えていなかった。それはきっと言うなれば記憶喪失という現象なのだろう。けれどそんなことはどうでもいいことだ。僕はそう思った。
 大切なことはもっと他にある。記憶や時間や空間やそんなものよりもなによりも心が強く望むものが、ある。あるということを覚えている。
 だから大丈夫だ。
 僕は空を見上げた。空はただ遠く、蒼く澄み、伸ばした指の先で柔らかな光に溢れていた。
「なにしてるの?」
 突然、そんなことを訊かれて僕は顔を上げた。


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 僕が突然ビルに囲まれた街の片隅に現われてから、どれだけこうして座り込んでいたんだろう。気付けば、辺りはすっかりと暗くなっており、あれほど賑わっていた街の人通りも少なくなっていた。
「大丈夫?」
 声につられて上げた視線の先に、夜の暗闇の中で街灯の光に照らされて、ビルの角から顔を覗かせた少女が見えた。僕は真っすぐに彼女を見る。
「行き倒れ? ケガしてるの? ……救急車とか警察とか呼んだほうがいい?」
 顔はよく見えない。けれどその声ははっきりとしていて、優しく心配げだった。
 僕は首を傾げる。ケガ? してない。救急車や警察? ……それが何の為の組織か基礎知識は覚えていたけれど、自分に必要だとは思えなかった。
「いいえ、行き倒れもケガも警察も、いらないです」
「そう?」
 答えれば、沈黙が落ちた。
 時折通る人の足音、断続的に走り抜ける車の騒音。……彼女はまだそこにいて、僕の方を見ていた。僕も目を離せずにいた。
 暗闇に浮ぶ彼女の肩はほっそりとしていて、どこか頼りなげだ。
 ──少女。
 自分が求めているのは<彼女>ではない。それだけは明確に分かっているのに、僕は目が離せないでいた。ずいぶん長い間そうして見つめ合い、ふと彼女がまた口を開いた。
「……ねえ、なんでそこにいるの? 酔ってるの? そのまま路上で寝たら、死んじゃうよ、いいの?」
 矢継ぎ早のその質問の一つ一つにどう答えようかと僕は少しの間、黙る。
 彼女は繰り返した。
「死にたいの?」
「死にたくは、ありません。けれど、僕は自分がなぜこんなところにいるのか分からなくて、どうしたらいいのかも分からないので、ここでずっとこうしているんです」
 丁寧にそう返す。なぜだろう、僕はきちんとしたしゃべり方さえ忘れたように、はきはきと言葉を発音しなくてはいけなかった。……そう、まるで初めてこの言語をしゃべるかのように。
 彼女もそう思ったに違いなかった。彼女は首を傾げる。ビルの角にしがみついたまま、まだ近寄ろうとはせずに。
「あなた外国の人?」
「……分かりません」
 本心だ。僕は彼女の不安げな眼差しを見返して、安心させるように僅かに笑んでみた。
「どうやら僕は記憶喪失のようなのです」
「…………」
 彼女は困ったように顔をしかめた。
 どうしようか、とても迷っているかのように彼女は顔をしかめていた。

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 パアン、と遠くでクラクションが鳴った。
「……落ち着いてるね」
「そうですね」
「つまり、行き倒れてるんじゃないの?」
 彼女の言うことは正しいのかもしれないと僕は思った。自分には行くところがない。どこに行けばいいのかも分からない。これを行き倒れ、というのだろう。
「そうかもしれません」
「……これからどうするの?」
「さあ、分かりません」
 また沈黙が落ちた。露地に座り込む僕と角から覗き込む彼女との微妙な距離を、視線だけが繋いでいる。
 ……僕はどうすればいいのだろう。大切なものに出逢うためには、どうするべきなのだろう。──逢いたい。逢いたい。逢いたい。逢いたい。
 胸を締め付ける想いに、僕はそっと目を伏せた。
 逢いたい、ただそれだけなのに。
 静かに、彼女の声は尋ねた。
「もしかして困ってる?」
「……そうかもしれません」
「行くとこ、ないの?」
「ありません」
 じゃあ、と彼女は言った。
 そのとき初めて、彼女は角から露地へ一歩足を踏み入れた。僕はきょとんと目を見開いて彼女を見た。
 制服を着ていた。胸元で揺れるリボンが赤い。髪は長くて、光に透ける綺麗な黒色をしていた。その髪が肩の上で揺れて、露になった耳に小さなピアスが街灯の光にきらりと光る。
 僕は、なぜか、見惚れていた。
 きれいだった。
 なんでだろう。聖母のようだ、と僕は思ったのだ。
 彼女は僕のすぐ傍まで来て、足元にしゃがみこむと小首を傾げて言った。
「あなたを助けてあげることって良いことになる?」
「……人を助けることは基本的に良いことなのではないのですか?」
「そうだよね、」
 なぜかひどく嬉しそうに彼女は笑った。
「じゃあ、ごはんおごってあげる」
 ……断る理由はなかった。

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 彼女は僕をハンバーガー屋に連れていき、そこで僕の素性を──といっても記憶のない僕には殆ど話すことはなかったのだけれど──聞いたあと、電車に乗って大きく広い家に僕を連れていった。
 外から見た彼女の家は大きく真っ暗で、どこか寒々しかった。物々しい玄関の扉を開けて、彼女はどうぞと言って僕を招き入れた。彼女はさっさと中に入って、玄関からリビング、ダイニング、キッチン、階段とまるで手当たり次第に明かりを点けていく。
 僕は履いていた靴を脱いで、彼女の家の床を踏んだ。
 途端に、足元から、にゃあと言う声がする。
 猫だ。全身綺麗な黒色をした猫と、白猫に、ぶち模様の猫の三匹が洗面所や階段下などどこかしらから顔を出してくる。
「──あ、それも拾ったの。犬も一匹いるんだよ。ね、こっち」
 玄関間の少し先にある磨りガラスの扉の方からそんな声がして、僕は足元に猫をじゃれつかせながらそちらに向かった。中は一続きの広いLDKだった。入って左手に広いリビングが広がり、カーテンの開いた大きな窓の向こうには広い庭が見えた。
 皮張りのソファ、整然とグラスなどが並べられたキャビネット、大きなテレビ。立派な家だ。
「コーヒーがいい? それとも、紅茶?」
「……どちらでも僕は構いません」
 彼女はキッチンからそう明るい声で尋ねてくる。
 どちらかといえば小柄な子だった。高校二年生なのだという。間近で見れば、笑顔が人懐っこく、きれいというよりも可愛い女の子だった。
 原嶋美帆、と彼女は名乗った。だから僕は呼びかける。
「美帆さん、」
「呼び捨てでいいよ。どう見たってあなたの方が年上なんだから」
「……美帆さん。この家に、あなたひとりで住んでいらっしゃるのですか」
 リビングの入り口の観葉植物の前で立ち尽くしてそう尋ねた僕を、彼女が硬い表情で振り返った。キッチンのカウンターを挟んだ向こうの彼女が遠い。
 彼女は僕を見てから、にこりと笑った。
「父親がここしばらく単身赴任で、今は母親が二ヵ月の海外出張なの。おかげで自由に暮らしてるんだ」
「こんな広い部屋に……」
「ねえ、」
 呟いた声を遮るように彼女は呼んだ。盆にカップを二つ並べて、キッチンを出てくる。
「座ったら?」
「……失礼します」
 こういうとき僕はどうすればいいのかが全く分からないのだった。彼女の言われるとおりにリビングのソファに腰をおろす。彼女は大理石でできたローテーブルにお盆を置いて、僕の座っているソファの斜め前の一人用のソファに腰を下ろした。僕にカップの一つを勧めながら僕を見て、またにっこりと笑う。
 僕も微笑んでみた。
「ねえ、記憶、ないんだよね」
 彼女は前置きなしにずばりと核心を口に出す。
「はい」
「頭とか打ったあととかないの? それともクスリのやりすぎで、とか」
「さあ。……ああ、いえ、多分そう言うのではないと思いんですけど」
「……けど?」
 僕は彼女の質問に丁寧に答えた。彼女は静かに聞いていた。
「僕はもうずっと昔から大切なものを探しているんです。それだけはきちんと覚えているんです。僕はそれなしでは生きていけなくて、それも僕を待ってるんです。……だから今の僕が記憶を失っているのは、多分、それと出逢うためなんじゃないか──と、そう思うんです」
「……よく分かんない」
 あっさりと彼女はそう言って、カップのコーヒーに口を付けた。物怖じもせず僕を家に引き入れて、こんな僕の話を聞いている彼女のことの方こそ僕にはよく分からなかったけれど、口にはしなかった。彼女は長い髪を細い指でかきあげる。
「なんてゆーか、なんか、観念的な話だね。でもあたしはそういうの分かんない。とにかくさ、当てはあるの?」
「……いえ」
「あなたの大切なものってなに?」
「……分かりません」
 僕は正直に答えていた。さすがにそのときは彼女もカップを唇から離して、きょとんを目を丸くした。

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「分からなくてどうやって探すの?」
「分かります」
 僕は不思議そうにしている彼女に笑いかけた。その自信だけはあった。
「分かるんです、出会えば、絶対」
「……なにそれ」
「絶対惹かれるんです、分かります」
 ふうん、と呟いて、また彼女はコーヒーを一口に口に含んだ。
「まあ、いいや。行き倒れてて行くとこないならしばらくこの家にいていいよ。……これってあなたの役にたつ?」
「役に、ですか?」
「良いこと?」
「……そうですね、僕は助かります」
 少し考えて答えると、やっぱり彼女は本当に嬉しそうに表情を和らげた。
「部屋は二階に客間があるからそれを使えばいいし、キッチンもバスルームも好きに使っていいよ」
「──どうして」
 素直な疑問を僕は口にした。彼女は子供のように無邪気で、それでいてどこか大人びた、不思議な笑顔を僕に見せた。
「あたし良いこと探してるの」
「…………」
「良いこと百個集めて、天使様にお願いを叶えてもらうの。──だから」
 彼女の言葉は僕にはよく分からなかった。……でも多分、だから僕を拾ったのは偶然だったのだろう。ただ偶々僕がそこにいて行き倒れて誰かの助けを必要としているように見えて、助けたら良いことになるから、拾ったのだ。どこか打算的にも見える「良いこと」だけど。
 確かに、優しさが、見えた。
 僕に声をかけたとき、彼女は本気で僕を心配してくれていた。だから僕は躊躇いなく頭を下げた。
「お世話になります」
 彼女に笑いかけると、彼女は良かった、と呟いてほっと息を吐いた。……そのため息はまるで深刻そうに聞こえて。
「……美帆さん?」
「そうだ」
 と、けれど不意に顔をあげて、楽しそうに彼女は僕の方を見た。
「じゃあ名前決めなきゃ」
「──え?」
「不便でしょ、名前ないと。あたし、名前付けるの好きなんだ。猫、いたでしょ。黒猫がエディで、白いのがブラン、ぶちはブチ猫ホームズっていうの」
「可愛い名前ですね」
「名前覚えてないんでしょ? じゃあやっぱり決めなきゃ」
 どうしようかな、と言いながら彼女は僕をまじまじと見た。居心地が悪い、とは思わなかったけれど、名付けられるというのが不思議な感覚で僕は落ち着かなく、そんな彼女の視線を浴びた。
「綺麗な黒色の髪をしてるね、肌も結構浅黒いし、彫りも深いし、ねえ実はハーフ? なんか南国っぽいよね、アラブとか」
「はあ」
「──ハル」
 急に彼女はそう言って、口を噤んだ。僕はなぜかその瞬間にとてもどきりとして、はっと彼女を見つめ返している。彼女は真っすぐに僕を見た。
「ハル」
「────」
「ハル、に決めた。あなたのことこれからハルって呼ぶね」
 彼女は微笑む。
 僕は見つめる。
 そしてその瞬間に、契約は成されたのだ。



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水沢圭子

Author:水沢圭子
目指せ小説書き。日々の生活に甘んじず頑張るために実験的にブログ小説を始めることにしたくせに、結局書けてません。とはいえ現在は投稿メインでがんばり中。

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